2 \documentclass{ltjsarticle}
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19 \begingroup % the \endgroup is put in by \aftergroup
21 \dimen\z@\textwidth \textwidth\textheight \textheight\dimen\z@
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131 晩の7時15分少し前からWilhelm Weber町29番地の前の歩道を僕は行きつ戻りつし
132 ていました.星の見えたのは近日珍らしいが,秋風が冷こくなってリンデの落葉
133 が二ひら三ひら散らばっているなどは誂向きの道具立です.
135 其処で僕は或るFr\"auleinとrendez-vous があったのです.フロイラインという
136 のはProf.\ Dr.\ Emmy Noether女史です!
138 ヒルベルト先生を訪問するのに,僕一人では話が途切れたときに困るだろうとい
139 うて,親切なNさんが同行してくれる約束なのです.
141 Wilhelm Weber町29番地.H先生のお宅も随分久しいものですねェ.昔ながらのさ
142 さやかな――あれは「柴折戸」としておきたい.それから広くもないあの「前
143 栽」.それはしかしながら三十年間に木立が茂って,李だか梨だか,暗くて分ら
144 ないが,丁度季節ではあり,定めて老先生夫婦の食卓を賑わせていることでしょ
145 う.玄関は矢張り暗いが,勝手を知ったNさんは殆ど案内を乞わないで,「来まし
146 たよ」の科白と取次ぎに出た女中とを跡に残して,さっさと例の客間へ僕を導き
147 ました.電話で言ってあったのでしょう,「承知していましたよ.よく来てくれ
148 たねエ」と言いつつH先生は直ぐ出て来られました.今年丁度七十歳のH先生は血
149 色もよく,昔ながらの童顔に微笑を湛えていられます.四五年前に先生は難治の
150 重病で,病名はラテン語で何とやら,聞いても忘れましたが肝臓の故障らしい,
151 一時は殆ど絶望の状態に陥られました頃,丁度アメリカで新薬が発見されて,其
152 の為に一命を取り留めたということです.しかし,その薬だけでは効験不確だか
153 ら,毎日生肝を四半斤ずつ食っておられるそうです.それでも不治の病だから,
154 若しもこの療法を中止するならば,生命は週を以って数うべきだというのです.
155 これは君も既に御承知でしたね.唯々療法の効験が現われて,今年チューリヒの
156 コングレスへ出掛けるほどの元気が出たのです.
158 H先生は一昨年か,退職の後にも大学で毎週一回位ずつ,自由に講義をしているそ
159 うです.例の数学基礎論などでしょう.「この冬学期には未だ片附いていない事
160 を全部やってしまおうと思ったがね,助手達が存外批判的(kritisch)でね――
161 まあまあ無理をしないで,ぼつぼつやるより外はなかろう……Formalismus(形式
162 論)は重大だ.それは誰でも認めなくてはならない.しかしそのFormalismusばか
163 りでは済ませない所があってね,そこに問題があるのだがね……」.くどくどと
164 独り言のようにつぶやく老先生を見て,僕は暗涙を禁ずることを得ませんでした.
166 数年前に僕は数学基礎論に関して通俗的の解説を述べた折に,H先生は一生の思出
167 に凡(すべ)てのホトトギスを鳴かせて見せるのだというようなことを書きまし
168 た.それは勿論数学基礎論を解決し了る意気込を言った積りなのですが,比喩が
169 不適切である為に,僕の意志にない所の,嘲笑というような印象を読者に与える
170 虞(おそれ)がありましたから,「数学基礎論は完成してもよい,又は完成しな
171 くてもよい.只H先生は余生を安楽に送られることを望む」という意味を,何処
172 かへ書き入れようと思いながら,それを忘れてしまいました.僕は今それを思い
173 出したのです.毎日三十匁の生肝を食って不治の難病と戦いつつも,駿馬も老い
174 ては揚足を若い助手連に時々は取られながらも,どうして排中律の証明等等を書
175 かずには居られないでしょう.余生を楽しむなどは論外で,生きながらの餓鬼道
176 ではありませんか.恐ろしいのは,これも不治なる知識追求症です.
178 さてNさんはと見ると,これは又明らかに困却の色を表わしています.尤も毎日の
179 ように聞かされているのでは,十年振に会ったものと感じが違うのも止むを得な
182 H先生はしばしば話頭を転じました.社会問題といったようなものも出ました.人
183 間があまりに多い.地球があまりに狭い.しかし科学の進歩は,どうにかして難
184 局を打開するだろう,等等.「なに,ロシヤ人などには何も出来やせんがね」な
187 話は段々超越的になりました.「予は人間の無窮の進歩を確信する.そもそも人
188 間の歴史の五千年などは時の無究に比べて零である.然るに其の間に我々は現在
189 これだけの進歩をしたではないか.いや,そればかりではない,科学が説明する
190 如く,幾milliardの歳月の間に我々は泡のようなものから今日の人間にまで進歩
191 したのだ,億といい,兆といい,知れたものだ.この後無窮の歳月に於て我々は
194 milliard年前の石塊が出た頃に,Nさんが僕に目くばせをしました.無限の進歩の
195 所で僕等は起立しました.面白い御話を承って思わず長座を致しました.さぞ御
196 疲れでしょう.有難うございました.御休みなさい.
198 後で其の晩C氏の所で聞けば,H先生のmilliard年の話は近頃当地有名だそうです.
199 君もmilliard聞かされたか,というようなことらしい.近頃先生はWells 世界史
200 概説を愛読していられるそうです(例の一冊物,近頃そのドイツ訳が盛んに行わ
203 先生が証明論の休み休みに,Wellsを読んだり,十億年間の人間の進歩について瞑
204 想したりしていられるならば,それは誠に結構です.若い人達がそれをゴシップ
205 にして興じても,構わないでしょう.先ずはめでたし,めでたし!
208 \raggedleft 高木貞治「ヒルベルト訪問記――1932年10月8日,ゲッチンゲンに於て」\\
209 (青空文庫\footnote{\verb+http://www.aozora.gr.jp/cards/001398/files/50908_41912.html+})